イスパハンという名は現在ではオールド・ローズの品種名やそのバラから名を取ったケーキの名前として有名になっていますが、本来はペルシャの古都市、エスファハーンのフランス名。
エスファハーンは現在のイラン都市ですが。当地で自生していた古代薔薇の株が1832年にヨーロッパに持ち込まれ、その洗練された美しさの香りの強い大輪のバラの名前になりました。このバカラのモデル名がバラの名前、古都市エスファハーンのどちらにちなんで付けたか確かな事は測りかねますが、バカラの同時期のモデルであるジェダがやはり中東の都市の名にちなんで付けられている事などから古都市エスファハーンに因んだと考える方が自然ではないかと想像しています。
エスファハーンは現在のイラン都市ですが。当地で自生していた古代薔薇の株が1832年にヨーロッパに持ち込まれ、その洗練された美しさの香りの強い大輪のバラの名前になりました。このバカラのモデル名がバラの名前、古都市エスファハーンのどちらにちなんで付けたか確かな事は測りかねますが、バカラの同時期のモデルであるジェダがやはり中東の都市の名にちなんで付けられている事などから古都市エスファハーンに因んだと考える方が自然ではないかと想像しています。
©Galleria Kajorica
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イスパハン(エスファーハン)は長いペルシャの歴史の中で何度も首都になった重要な古都市です。
街の歴史はササン朝ペルシア(226~651)の時代まで遡ります。ササン朝の王、第13代 ヤズデギルド1世(在位:399-420) の時代にヤズデギルド1世のユダヤ人の妻によりヤフーディア(エスファーハンの原型)が建設されイスファハンはペルシア帝国中央に位置する重要都市として位置づけられます。市内には 軍営都市ジェイ(シャハレスターン)とユダヤ人の街ヤフーディアの双子都市が存在し、 この二つを合わせてエスファーハンの街ができました。
その後ササン朝の最盛そして衰退後、ブワイフ朝時代(932 シーア派のブワイフ家がイラン・ファールス地方で王朝を建設。 945 ブワイフ朝がアッバース朝の都、バグダードを占領。更にセルジュク朝時代に1038年に トゥグリル・ベク(在位:1038~1063)が支配を確立したトルコ系スンナ派王朝が 1050年にエスファーハンを首都とします。
その後イル・ハン国時代に1256年に チンギス・ハンの孫フラグがイル・ハン国を建国し首都を現在のイラン西部のタブリーズに定め、その後更にアッバース1世(在位:1588~1629) サファビー朝の全盛時代1598年に イスファハンに再び都を移します。この時代イスファハンは 「世界の半分」(エスファハーン・ネスフ・エ・ジャハーン)と呼ばれるほ ど繁栄 します。
その後、カージャール朝(1796~1925)からイランの首都はテヘランへと遷都し現在に至ります。
バカラのペーパーウエイト「イスパハンの庭園」
ペーパーウエイト「イスパハンの庭園」のパターンに似ていますね。
ペーパーウエイトやモスクの天井の様な連続模様に出来なかったのは、製造上の理由でアシッドエッチングの型紙を分割する必要があったからでしょう。アシッドエッチングのパターンは一見全面に模様がちりばめてある様なミケランジェロもよく見ると4ブロックに分割されています。
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©Galleria Kajorica
アンティークバカラ イスパハン グラスL
赤ワイングラス 直径9.4cm H=9.5cm
満水容量 220ml
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さて、今年の夏休みはイランで3週間を過ごしました。かねてからこの目で見てみたかったペルシャ文化を満喫。イスパハンは観光としてもシーラズと並ぶメイン都市ですが、ツアー旅行ではない外国人観光客はまだ極少数で、土地の人たちも観光客スレしていなくて良かったです。
街の見所は街中央にあるイマム広場に多くあります。
Photo©kajorica
有名なエスファーハンのシェイフ・ロトゥフォッラーモスクは前評判通り美しく、想像していたよりこじんまりしていてとても落ち着きます。空間の配置は男女別のスペースがなく普通のモスクの造りとはだいぶ異なります。これは一般にはアッバース1世のハーレムの女性のためのモスクだったからだと言われているそうです。
アッバース1世によって建設されたイマム広場の中央に位置するAali Qapu(アリ・カプ)宮の最上階ミュージックホール、デコレーションの壁が二重構造になっていて、意表をつく装飾で衝撃的と形容しても大げさではない美しさでした。王様のプライベートパーティーに使用されていたと言われ、音響も素晴らしいそうです。
アリ・カプ宮 迎賓室(? 中層階ホール)天井装飾も美しいです。
Photo©kajorica
アッバース1世によって1602年建設が開始されたシ・オ・セ橋
サファビー朝時代の建造物の中では最も有名な橋と言われています。
Photo©kajorica
アッバース2世によって1650年建設が開始されたカジュ橋
橋中央部分で王様が川面を眺めてゆったりと時間を過ごすスペースが作らてれいます。
Photo©kajorica
こちらはアッバース1世が商業を発展させる目的で1600年ごろ商才のあるアルメニア人を移民させて作ったアルメニア人居住区ジョルファの中にあるヴァーンク(Vank)教会。
教会外側は極めて控えめなのとは対照的に、建物内部のペルシャ様式とキリスト教の融合された独特の目のくらむような装飾が非常に印象的です。これを見てアルメニアにも行ってみたくなってしまいました。
Photo©kajorica
このイマーム広場。世界でも屈指の広さです。(モスクワの赤の広場より大きい)
上の写真、猛暑の夏の夕方ですが日陰には早くもピクニックを始める人たちが見えるでしょう。夜になるとこの巨大な広場に所狭しと家族連れが繰り出して、毎夜楽しそうにピクニックをしているの、実に壮観でした。イランの人たちは懐っこいのでフルーツその他の食べのもの分けてくれたりしました。
噴水の向こう側に見えるのがシェイフ・ロトゥフォッラーモスクです。
Photo©Arad Mojtahedi
現在のイマーム広場
(旧通称:「メイダーネ・シャー ميدان شاه Meydān-e Shāh 」(王の広場)
正式名称:「メイダーネ・ナクシェ・ジャハーン میدان نقش جهان Meydān-e naqsh-e jahān」
(世界の肖像の広場)
広場裏の民家の入り口
郊外は近代的な建物も多いですが、逆に市の中心部の裏通りはタイムスリップしたようです。
ジャーメモスクの広い中庭で夕べのお祈りのためにカーペットを広げる人
郊外のゾロアスター教の丘から見るエスパーハンの街
エスファーハン出身の著名人としてはやはりこの人、ソラヤ。
ソラヤ・エスファンディヤーリー・バフティヤーリー(1932年 - 2001年)
エスファハーン生まれで「エスファハーンの薔薇」の異名を持った、イラン最後のシャー、モハンマド・レザー・パフラヴィーの二人目の王妃。
継承者をつくることができず7年で離婚しますがその美しさは伝説的です。