2017年7月27日木曜日

アンティーク バカラ カヴール BACCARAT CAVOUR

アンティークのカヴールは製造期間が短かったようで、希少モデルに分類しています。
ナンシーに似た水平垂直両方向の格子カットですが水平方向のカットの間隔を変えるだけでこんなに異なる印象になるのかと驚いてしまうようなモデルです。
シェイプは男性的で上方向に伸びるようにスッキリとしていて、長く飽きずに使えそうな佳品です。個人的な趣味で言うと、あまりナンシーを持ちたいと思ったことはないのですが、このカヴールは以前から一度持ってみたいモデルでした。
現物を手にしてみるとなぜか和に通じるものがあり、洋風にも和風にも使えると思います。カットを施しているので、アシッドエッチングのモデルと比べやや肉厚が多めで、あまり神経質にならずに普段使いも可能です。



バカラのモデル名としてのCavourカヴールは日本では一般にカブールと表記されているのでオークションのタイトルではカブールを採用しますが、イタリア語での発音はカヴールの方が正確なのでこのブログではカヴールと表記します。

カップ部は形状もカットも同じで脚とベースに凝ったカットを施した物もあり、一般的にはこちらも同じくカブールと呼ばれていますが、カタログで確認すると正確にはフォルム11432 カット11484になります。


1916年のカタログページ



名前の由来
Cavourといえば当然カヴール伯爵。19世紀イタリアの大政治家。ガリバルディ、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と言われ、特に政治的な采配と卓越した外交術でイタリア統一を成し遂げた功績から後世「神がイタリア統一のため地上に使わした男」とまで言われ広く尊敬されています。
サルデーニャ王国首相、初代イタリア王国首相(閣僚評議会議長)初代外務大臣を歴任。

ちなみにフランスのノルマンディー地方の海沿いにカブールという町があり、バカラのグラスの名はそちらに由来していると紹介している方もいるようですが、ノルマンディー地方のカブールのスペルはCabourgと全く異なりCavourとは無関係です。またアフガニスタンのカブールはKabulと書きます。念のため。
カヴール伯爵
カヴール(1810-1861)は正式名をカミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ・カヴール、チェッラレンゴ・エ・イゾラベッラの伯爵(Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isola bella といい。「カミッロ・ベンソ・カヴール」または「カヴール伯爵」の通称で知られるます。
彼の政治の特徴は、無秩序や思想の強制と全体主義を避けられない革命が起こることを巧みに避け、思想言論の自由な国家を維持しつつ類稀な外交力交渉力でイタリアを統一したことと言え、イタリア統一の三傑でも革命を良しとしたマッツィーニとは異なるポリシーを持っていました。

1810年ナポレオン支配下のトリノ(現イタリア、ピエモンテ州の州都)にミケーレ・ベンソ・カヴール侯爵と裕福なジュネーブの貴族の母の間に生まれ15歳まで軍隊の学校に通い17歳には将校に、弱冠20歳で、カブール家の領地グリンツァーネの町長になります。この町は現在、のちに大政治家になったカブールの名も加えてグリンツァーネ・カブール(Grinzane Cavour)と呼ばれています。


カヴールは一生独身でしたが、女性の容姿はあまり重視せず際立って知性と教養のある女性と好んで交友し、1830年20歳の時知り合った3歳年上のジェノバの貴族で共和主義者アンナ・スキアッフィノ・ジュスティツィアーニ侯爵夫人とは年間100通を超える書簡のやり取りなどが10年後夫人が自殺するまで続きます。
25歳の時のアンナ・スキアッフィノ・ジュスティツィアーニ侯爵夫人
通称ニーナ。イタリア上流階級では成人後も幼名を使い続ける人が少なくありません。

1834年からヨーロッパ内で当時先進国だったイギリス、フランスの経済成長システムを学ぶため外遊しフランスの政治家と交友を広げ1837-1840年の間はパリソルボンヌ大学に学びフランスのインテリ層やルイ・フィリップ王周辺人物たちとの交友を広げます。

1843年帰国。農業、工業、教育の向上に尽力します。また経済発展のための鉄道網の整備の重要性を唱え貢献します。

サルデニア王国トリノージェノバ間の鉄道1854年開通


1848年サルデニア王国が当時北イタリアの大半を事実上治めていたオーストリア撤退に追い込むため宣戦布告した年にカブールはサルデニア王国下院議員となります。翌年には早くも国会の最重要人物と認識されるようになり、その翌年の1850年には農業工業大臣に就任。1851年には財務大臣に就任。1852年には主相就任と早いテンポで国政の頂点に登り、様々な国の近代化に大きく貢献します。詳細を書くと長くなりすぎるので割愛しますが、現代の視点からも斬新で大きな意味のある改革が多数あります。

サルデニア王国が北イタリアを統一するにあたりフランスの援軍を受け、その報酬としてニースやサヴォイアなどをフランスに譲渡する調停を結びますが、この調停は後にカブールの人気を落とす原因となります。

統一は始め苦戦しますが1860年から1861年にかけて徐々に勢力を増し中部イタリア南部イタリアも統一されていきます。多くの戦いの中でマジェンタの戦いやローディーの戦いはバカラの製品名にもなっています。

ガリバルディ将軍率いる統一軍のナポリ侵攻


ちなみにカヴールはシチリアをイタリアに統一するのは反対で、ガリバルディ将軍にメッシーナ海峡(イタリア半島長靴のつま先とシチリア島の間の海峡)を越えぬよう指示する手紙を国王ヴィットリオ・エマヌエーレII 世に書かせ送りますが、追って国王が個人的にこれを否定する手紙を送ったために シチリアは統一されてしまいます。

今でも北イタリアの人逹は、勤勉でなく税金の無駄使いも多い南イタリアが財政赤字の原因だとして、南イタリア、特にマフィアでも有名なシチリアを統合したのは間違いだったと冗談を言いますが、本当に国王が訂正の私信を書かなければシチリアはイタリアではなかったと思うと不思議な気がします。


1843年のイタリア周辺の国家

1861年3月17日ヴィットリオ・エマヌエーレII 世が正式にイタリア王国の国王であると議会に承認され、カヴールは初代イタリア王国主相に就任。

初代イタリア王国の国王ヴィットリオ・エマヌエーレ II 世


同年6月カヴールは子供の頃からの持病であったマラリア性の病が悪化し死去します。

1861年のイタリア
ローマ教皇国がイタリアに統一されるのはカヴールの死後9年目の1870年になります。

カヴールの葬儀


カヴールの銅像
カヴールの銅像はイタリア各地に多数ありますが特に出生地トリノの銅像は立派です。

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グリンツァーネ・カヴール城  Photo©Cloud7
18年間町長を務めたカヴールの城でした。現在はカヴールゆかりのガイドツアーもある他、ワイン・ミュージアムにもなっています。ご興味のある方はこちらのサイトを御覧ください。http://www.castellogrinzane.com/it/museo
この地方はバローロ(Barolo)バルバレスコ(barbaresco)などのなどイタリアでも屈指の高級赤ワインの産地で、グリンツァーネ・カヴール周辺はバローロ用のぶどう畑が始まる辺りに位置します。日本からはるばるワインの買い付けに来られる方々も少なくありません。

グリンツァーネ・カヴール付近のぶどう畑マップ

©Kobrand Corpolation作成のマップ(http://www.kobrandwineandspirits.comより)